「ねたあとに」連想日記 その5 過去の遊び

ねたあとに

ねたあとに

章題通り、紙相撲や「歌詞」などの昔やっていた遊びをいくつか紹介。インターミッション的な章。


紙相撲の力士に対する「ドーピング」の記述を引用。

あるとき誰かが、力士の内側にロウソクのロウを垂らすことを思いついた。重たくなるから畢竟、強くなる。仕掛けに気付いた者たちは、我も我もとロウを垂らし始めた。
エスカレートして、最後はほとんど一本分のロウソクをすべて垂らした力士が出来、それはロウソクになってしまった。(中略)全力士がロウまみれになって、紙相撲は終焉を迎える。なんだか悲しい歴史だ。


昨年の毎日新聞の記事より。リンク先が削除済みなので以下は既に記事をコピペしたサイトからの孫コピペ。

大河流れて:広州アジア大会 囲碁 韓国ペアが反則負け スポーツか、伝統文化か

◇勝負最優先で「事件」

中国の劉星七段が顔を真っ赤にしてメディアの取材ゾーンに現れ、何やら中国語でまくしたてている。ペアを
組む唐奕二段はその横をスタスタと無言で通り過ぎた。

初めて「スポーツ」として大会種目となった囲碁。20日、先陣を切って「ペア碁」と呼ばれる混合ダブルスが
始まったが、初日から異様な光景が展開した。

“事件”が起こったのは午後の2回戦、中国−韓国(朴廷桓八段、李瑟娥初段)戦だ。いずれも世界を代表する
男女のトップ棋士。優勝候補の筆頭格が1勝同士で激突した。序盤から互いに譲らない激戦が続いたが、
終盤に入って内容的には中国の勝ちが確定。ところが、まもなく終局かという時に、韓国ペアがまったく無意味な
地点への着手を始めた。

持ち時間は各45分で、それを使い切ると内容がどうであれ自動的に負けになる。韓国は、持ち時間の少なく
なっていた中国の時間切れを明らかに狙っていた。十数手以上にわたり無意味な着手が続いたため、審判団が
協議。規定により、韓国の反則負けとした。韓国側は「ルールの中で行った」と弁明。関係者の一人は「まさか、
世界を代表する棋士がそんなことをするとは」と嘆いた。

囲碁は古代中国が発祥の地と言われる。朝鮮半島を経て日本に伝わった。江戸時代、幕府が手厚く保護した
こともあり、飛躍的に発展、一般庶民に広がるとともに家元などプロ制度も生まれた。そうした中、囲碁
勝負事であるとともに、伝統文化として定着した。

日本は戦前・戦後と常に世界の囲碁界をリードしてきた。しかし、トップを維持していたのは十数年前まで。
以降は中国、韓国が台頭。現在、日本は3番手の位置にある。日本は昔から結果よりも内容を重視する風潮に
あったが、中国は囲碁をスポーツとしてとらえ、英才教育を展開。韓国も数年前からスポーツに位置づけ、
集団教育に力を注ぎ、腕をあげてきた。両国とも、良くも悪くも、勝負最優先の傾向にある。

囲碁はスポーツなのか、伝統文化なのか。そうした議論に一石を投じた出来事だった。


ゲームにおけるルールとは「やっていいことの範囲を線引くもの」であって、その線の内側で行われた行為に対し「それはズルい」と批判することはあってはならないと考える。線が二本存在することになるが、それならはじめに引かれた線は何の意味があるのか。
ルールを制定したら、その範囲内で何が出来うるかも同時に考えるべきだ。考えが及ばずに「そんなこと」がされたとしたら、それはルールの不備だろう。

上の囲碁の話で言えば、時間切れを負けとするならば、つまり勝ち筋をもうひとつ増やしたということだ。どちらを狙っても勝てるのに、一方は認められてもう一方は批判されるとは。



「我々はスポーツマンシップに則り〜」と宣誓させることで、明文化していない部分までプレイの内容に口出しできるようにするのは卑怯なやり口じゃないだろうか。



力士にロウを垂らしだしたら、その行き着く先は予想できる。ルールの制定ひとつでゲームは生きも死にもする。なのでルールの制定には責任が生じるのだ。

「じゃあ見なきゃいいじゃん」という正論はあることは理解していますが

うまく書けないんですが。
バラエティ番組を見ていて、そこに出演するタレントさんが「使い捨て」されていく様を見て、罪悪感をおぼえるのは僕だけなんだろうか。こんなに無責任に笑ったりすぐに飽きたりしていいんだろうかと。
そんなの昔からあったことだよ今に始まったことじゃないよとも思うのだけど、しかし最近は特にテレビと客とがそのことに対して自覚しているような気がする。気付いてないまま起こっていることじゃなく、自覚しているのにそのままそれを良しとして、そういうもんだよと言って、何も変わらずにいることが何だか恐ろしい。人の一生がかかっていることなのに。
つまり青田買いのしすぎなんだろうけど、その青田買いを買う方も売る方も何も抵抗がないことが、そしてそれによって起こることそのものも楽しんでしまおうとするその姿勢が、何だかもう恐ろしくて。
「スタードラフト会議」(http://www.ntv.co.jp/star/)という、さあ使い捨てできる人間を探すぞというあのショーを、さあどうぞ使い捨ててくださいと出てくるあの出場者達を、どうしても正視できない。

「ねたあとに」連想日記 その4 それはなんでしょう

ねたあとに

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ルールはこちらをご参照下さい。
http://www.n-yu.com/nande_show/







質問は普通答えより先に来るものだ。しかし「それはなんでしょう」ではその質問の一部だけが公開され、答えたあとに質問の全文が明らかになる。質問の一部→答え→質問の全文、の順である。これは何かに似てはしないだろうか。

それはクイズ番組の早押し問題だ。問題文の途中でボタンが押されたとき、正解と判定された後で問題文が改めて読まれ、ちょうどこんな感じになる。

そもそもクイズとは知識を競うものであったが、テレビでのショーでは解答者を一人に絞るために早押しボタンが発明された。そしてそこには反射神経と、途中までしか読まれない問題に対する先読みの能力とが要求されるようになった。

ポロロッカ」クイズ王・西村顕治の伝説
http://www.syu-ta.com/kako/2005/10/21/015017.shtml





いわゆる大喜利も質問と答えからなる遊びだが、これを答えから先に発表したらどうなるか。答えがフリで問題がボケになっている大喜利が「伊集院光 深夜の馬鹿力」(TBSラジオ)のかつての1コーナー「早押しクイズQQQのQのQ」である。

早押しクイズQQQのQのQ 『千葉県』






この「先に聞いた問題に納得がいかないまま無理矢理答える」という感覚には覚えがある。学生時代急速に流行り出した心理ゲームを初めてやったときのそれだ。

あなたは森を歩いていますと急に言われる。いや歩いてないよ今はここにいるよと言ってもいやそういうもんだからと言われる。歩いてるとして、歩いてると仮定しての話だと。納得がいかないまま続きを聞くとそこでまた、あなたは動物に出会いましたと言われる。はい出会ったと仮定しての話ですねと飲み込む。するとあろうことか、その動物は何ですかとこちらに問いかけてくるのだ。何を言ってるんだお前が動物の話をし出したんだろうが。出会ったことを勝手に決めておきながらその動物の種類をこちらに聞くとは意味が分からない。そんなの分かるわけないじゃないか。

いや当たるとかそういうんじゃなくてとにかく思いついた動物を言えと言う。なにがなんだかわからないままにとりあえず適当な動物を告げると、今度はこちらの人格やら性格やら、時には性癖までも決めつけてくるのだ。ははあわかったぞこれはつまり占いみたいなもんだな。当たるかどうかにはそれほど責任を持たない遊びだなと思っていると、なんでも心理学とかいう難しい学問を持ち出して、これはそれに沿って作られているから裏付けはあるんだ占いとかそういうのじゃないんだと胸を張られる。なんということだ。人の行動から何から勝手に決めつけておいた上で、その論理が学術的に正しいものだと主張までするのか。



ラーメンズ 心理テスト

「ねたあとに」連想日記 その3 ムシバム

ねたあとに

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ムシバムとはコモローがネット上に公開している「虫の画像を載せているブログ」。ルールを自ら課している。

1. 夏、コモローの過ごす山小屋の敷地内(できれば室内)で、虫の写真を撮って公開する
2. キレイな虫を探さない
3. 上手に撮ろうと無理しない
4. 撮った虫のことをなるべく調べない。分かろうとしない

人間はよく不要な制限を自分にかける。制限をかけて物事をわざわざ難しくする。そんな制限ない方がうまくいくのに。それでもかけるのは、つまり難しい方が面白いからだ。実質的な効果より面白さを優先するのは、それが遊びだからだ。
遊びには常にルールが存在する。ルールによって行動が制限されるわけだ。それさえなければもっと効率的にできるのにそうはしない。我々人類は贅沢なことに、不自由さを楽しんでいるわけだ。

ではそのような楽しみを感じられない人種がいたら、まったく価値観の異なる異星人が我々地球人の営みを見たら、彼らの目にはどう映るだろうか。


我々がゴルフを楽しんでいる様子を異星人が見たらどう思うか。あの球を遠く離れた場所にある穴に入れたいというのは理解してもらったとしても、ではなぜあのような棒を使って球を弾き飛ばすのか理解できまい。飛ばしてもどうせその球のところまで歩いていくのだ。ならはじめからポケットにでも入れて穴のところまで行けばいいじゃないか。3人でプレーするときにはそれぞれ球を1個ずつ持ち、全員が穴まで歩く。ならば1人に頼んで3つ全部持っていってもらった方がいいんじゃないか。わざわざ全員で1個ずつ運ぶより効率がいいだろう。

また麻雀をしているのを見たら。はじめ不秩序に並ぶ牌を、ひとつずつ交換しては秩序ある形に揃えていく遊びらしいということはわかる。しかし、見事その秩序ある形に揃えることができたとしても、その牌はすぐにまたかきまぜられ不秩序な状態にされてしまうのだ。なぜだろう。せっかく完成したものをなぜすぐに崩すのか。それが目的だったはずなのに。

「ねたあとに」連想日記 その2 顔

ねたあとに

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2.顔

  • サイコロ2個を振り、出た目に応じて「恋人」のプロフィールを決定する。
  • プロフィールには「名字」「名前」「年齢」「住まい」「性格」・・・など数十の項目。それぞれに大して11から66までの21種類の出目に応じた結果が決められている。項目の数だけ振り続ける。

別に勝敗を決定するような遊びではない。出来上がりを見てみんなで笑うというものだ。


プロフィールの後半は顔のパーツになり、それに応じて「恋人」の似顔絵が描かれる。恋人の顔のつくりに自分の意思が関与できないような仕組み。つまりこれは福笑いのようなものだ。あちらは目隠しをして、こちらではサイコロを用いて、どちらも「うまくできないしくみ」を完成させている。



小学校の頃にやったレクリエーションで、俳句の上の句、中の句、下の句をそれぞれカードに書いて回収し、ランダムにそれぞれ1枚ずつ選んで続けて読むというものがあった。別の人が書いた3文を組み合わせるのだから変な文が出来上がる。それを楽しむというもの。これも「うまくできない」ことを笑う遊びだ。



人は出来の悪いものをあざ笑う生き物だけど、こうしてランダムによってできた「出来の悪いもの」を笑うのは罪がなくていい。作る能力の低い人をバカにするニュアンスが、とりあえずはないからだ。



ところでこの「ランダムに変な人を作る遊び」、Wiiでもできる。自分の分身であるMiiを作るときは顔のパーツを用意されたいくつかのパーツから選択するのだけど、それをサイコロで決めてしまえばいい。



今日書店でタレント名鑑が発売になっているのを見たのだけど、あれを使っても遊びが作れそうだ。適当に有名なマンガの実写版を作るとして、タレント名鑑のページを適当にめくって指差した位置の人に配役する、とか。男性1名女性1名を同じ方法で指定して、この2人が熱愛中だと想像して、その出会いのきっかけはどんな仕事だったか決める、とか。仲人は誰かとか。こちらは「変な人を作る」のではなく「人を変に使う」遊び。

「ねたあとに」連想日記 その1 ケイバ

長嶋有ファンのお友達から薦められた「ねたあとに」を読んでいます。

ねたあとに

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山荘で過ごす男女が夜に行う「あそび」の様子を描いたお話。いやこれをお話と言っていいのか。まだ途中までしか読んでいないのだけど、これがもう本当に「何も起こらない」。山荘で行われる様々なあそびを一章につき一種目描いている。「あそび」は特に意味のない、ただ本当の「あそび」。勝敗によって誰も何も得ず何も失わない。いい大人が集まって麻雀牌を使って麻雀をやらずに「ケイバ」をするのだ(!)。
この「何も起こらない」という点を挙げて貶しているつもりはない。ただ正直に読んだまま本の印象を書くとこうなっただけである。最初はせっかく久しぶりに活字の本を読むのだから読み終えたら感想でも書こうかなとか思ってたのだけど、ちょっとそれは無理だということに気付いた。しかしゲームは好きなので、以降はこの作品に登場するゲームについての考察と、そこから連想される勝手なことを書くことにする。なのでこれは書評ではない。

第一章は「ケイバ」。ルールは以下の通り。

1.ケイバ

  • 136枚の麻雀牌をよく混ぜ、そのうち135枚を9×15の長方形型に並べる。9列に1〜9の数値を対応させ、これを9頭の馬に見立てる。プレイヤーは自分の担当する馬を決め、名前を付ける。
  • 余った1枚をめくり、そのランクに当たる列の手前側から向こうへ差し込む。列は牌1枚分上にずれ、向こう側から牌1枚だけはみ出す。
  • はみ出した1枚をめくり、同様にそのランクに当たる列の手前に差し込む。以下繰り返し。
  • めくった牌が字牌であれば同じ列に差し込む。連続して字牌がめくられればその度に同じ位置に差し込み続ける。(最初にめくった1枚が字牌であるときの処理については記述がない)

麻雀牌を使った、麻雀でない遊びのうちのひとつ。割と有名なゲームだと思う。実際検索するといくつか出てくる。

Yahoo!知恵袋 一人で出来る麻雀牌を使った遊び
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216720382
麻雀牌ケイバブックイカ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~jyokun/mahjong_derby/index.html


こうした「山がいくつかあり、それぞれに数値が対応していて、めくられたモノはその数値に対応する山に移動させ、その山から一枚取る」というルールの遊びで自分が最も最初に知ったのは「時計」だと思う。トランプの一人遊びだ。

  • トランプ52枚をシャッフルし、4枚ずつの山を13組作る。このうち12組を時計の文字盤のように丸く並べ、中央に残る1組を置く。それぞれ時計の文字と同じ数値を対応させる。中央は13。
  • まず中央の山から1枚めくり、そのカードのランクに対応した山の下に差し込む。その後差し込んだ山の上のカードをめくる。以降繰り返し。
  • 13(K:キング)が4枚めくられると終了。そのとき全てのカードがめくられていたら「勝ち」。

実際に遊びたい方はこちら(要Java)。
http://homepage3.nifty.com/puzzlehouse/kg38/kg38.html

いわゆるソリティアなのだけど、最初に知った本では占いとしていた。「勝ち」にならなくとも4枚が表向きになった山があればその時刻を「幸運の時間」と解釈するとか、あるいは一年のうち何月が幸運かとか(それは時計じゃないだろうと思った)。
これで遊んでいるとき、どうしていつも4枚目のキングがめくられたら終わりになるのか、その仕組みが分からなかった。今ではわかる。中央の山から始めるのだから、ゲーム中中央の山だけは常に3枚、他の山は4枚ずつある。他の山は4枚目がめくられてもまだ裏向きのカードがあるが、キングだけは4枚目がめくられるとそれを中央の山の下に差し込んで、その上には裏向きのカードがないためそれで終わりになる。良く考えたら当たり前だった。
あちこちとめくるカードが移動するけれど、やっていることは要するに52枚のカードを1枚ずつめくるだけだ。4枚目のキングがめくられたらそれで終了で、それまでに全てのカードがめくられていたら勝ち、ということは、ある規則に沿ってめくられるカードの列を、その規則に沿って並べ替えたとき、その最後のカードがキングであればいいわけだ。なのでこの「時計」の勝率は1/13ということになる。




ひとつの部品が次の部品を動かすスイッチになっていて、その次の部品もまたそのまた次の部品を動かすスイッチで・・・と書くと思い出すのは、多湖輝「頭の体操」で読んだあの問題。

頭の体操〈第1集〉パズル・クイズで脳ミソを鍛えよう (光文社知恵の森文庫)

頭の体操〈第1集〉パズル・クイズで脳ミソを鍛えよう (光文社知恵の森文庫)

四体のロボットABCDが部屋の四隅に一体ずついる。Aにだけスイッチを入れると壁沿いに移動し、Bの場所まで移動するとBのスイッチを入れ、自分はBの居た位置に停止し、スイッチは切れる。Bはまた壁沿いに進みCのスイッチを入れ、またそこで止まる。このような仕組みに作られた四体は、この調子でいつまでも部屋をグルグルと回り続けることになると思っていたら、そうはならなかった。なぜか。

うろ覚えだがこんな問題だった。答えは、四枚の十円玉か何かを使ってやってみればすぐに分かる。




さらに連想。これを使った恐怖のトリックが「世にも奇妙な物語 映画の特別編」で使われていたのを思い出す。

世にも奇妙な物語 映画の特別編 [DVD]

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飛行機事故により雪山で遭難した四人が山小屋に入る。山小屋の部屋には四隅に一つずつベッドがある。みな休みたいが全員が寝ると凍死してしまう。そこでまず三人それぞれのベッドで眠り、残る一人が自分のベッドの位置で寝ずの番をすることにした。三十分経過したら起きている者は壁沿いに移動し、その先のベッドに寝ている人を起こして、自分はそのベッドを奪って寝る。これを繰り返すことで常に誰かは起きていることになり、寝すぎて凍死するのを防げる。この方法で何周かしたところで、恐ろしい事実に気付いた。何者かがいると。


あと僕はこれが好きです。

そう、あれは急な吹雪に危うく遭難しかけた時の事
http://kakushide.blog69.fc2.com/blog-entry-366.html

一晩たってもまだ頭から離れないのでここに

昨日の「行列のできる法律相談所」、ゲストの我が家の杉山を司会の島田紳助が「お前は人間と猪のハーフだ」とイジる。そして杉山の母が猪に犯された描写をジェスチャーを交えながらやってのけた。
この紳助の行動そのものよりも、これを放送してよいものとした番組に問題があると思う。CM前のまたぎにまで使うほどに、これを面白いものと扱っていることに。客に対して、ほらこれ面白いでしょこういうのお好きでしょと。ナメられてるんだよなあ大衆って。