JOKERのジョークは笑えない

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ピエロのメイクはたいてい、白塗りの上に大きく笑った唇を描く。メイクが笑顔なのだから、たとえ本人が笑っていなくても笑顔に見えるようになっている。遠目で見れば笑顔、近くでよく見ればそうではない顔。

 

 


■アーサーの笑い
映画が始まってからずっと、観客はスクリーンに映るアーサーの常にズレている笑いを目にすることになる。しかしそのズレ具合は単一のものではない。脳の障害により止まらなくなるアーサーの笑いのほか、下ネタを披露するステージを見る観客に紛れ、周囲とは笑うポイントが合わず、人が笑うところで笑えず、笑っていないところで笑うシーン。そしてアーサー自身の、笑うしかないほど悲惨な、しかしとても笑えるものではない境遇。
その他に、この作品そのものが見せる笑いのシーンもまた世間とはズレたものだ。小児病棟で拳銃を落とすシーンも、背が低くて鍵まで届かずもがくシーンも、これが別の作品なら何も考えず笑えたかもしれないが、これらはどれもこの状況ではとても笑えるものではない。最も象徴的なのはラストの、廊下の向こうで繰り広げられる(本来ならコミカルなはずの)追いかけっこ。ご丁寧に左右に往復までして見せることからも、これはギャグですよ、笑うところですよと訴えかけてくるあのシーンは、もちろんその直前に見えた女性カウンセラーに何が起こったかを示唆する「足跡」が床に残ったままでは笑えるものではない。笑わそうとしていることはわかるが笑えない、まるでネタ帳を見ながらやってみせるアーサーのジョークのようだ。
自分の口に指を突っ込み無理やり口角を上げなければならないほどに、アーサーはうまく笑えず、うまく笑うことをやめられず、うまく人を笑わせられず、そしてコメディ以外の職に就けないアーサーは、人を笑わせることをやめられない。アーサーの希望は笑いしかないが、アーサーの苦しみもまた笑いによるものだ。


■どこまでが妄想か?
病床の母親と一緒にテレビショーを見るアーサーは、いつの間にかスタジオで客席に座り、自身の境遇を語り周囲からの理解を得て、ステージに上がり司会者と抱擁までするのだが、しかしすぐに自室でテレビを見るシーンに戻る。
ここで観客は三つの事実を知る。

・このシーンが現実でなく、アーサーが見た妄想であること
・アーサーには空想癖があるということ
・この映画での妄想シーンには何の映像処理もなされず、現実のシーンと見分けがつかないこと

妄想の始まりと終わりの「印」(いわゆる「ポワンポワンポワーン」)もなく、またそのシーン中に映像がボヤけたりザラついたりということもない。これでこの後に作品中で起こった出来事のいくつかがアーサーの見た空想だったとしてももう文句は言えなくなる。そして実際に、アーサーだけが見ているはずの妄想が説明もなく映り、後から「答え合わせ」をすることになる。
同じ階に住む交際相手のソフィーの部屋に勝手に上がり込んだアーサー、彼女に見つかって驚かれ、「お母さんを呼んでこようか?」と言われる。母親が入院中であることを知らないわけがないにも関わらず。ここで初めてアーサーは、これまでの二人の時間がすべて現実でなかったことに気付く。ではどこまでが本当だったのか。エレベーターの中で出会い、娘を学校に送るところを尾行し、その尾行がバレるところまでだろうか。スタンダップコメディとしての初舞台で笑いが止まらなくなり、なんとか持ち直してジョークを言うアーサーの声は、途中でBGMにかき消されてネタが聞こえなくなる。そのネタが笑えるものだったのか、そのネタを聞いた観客が笑っているのかが意図的に伏せられているのだが、その後病室で見たテレビで自身の映像を見たアーサーとともに、やはりスベっていたのだと知る。ウケたということまで含めて妄想だったのか。
もうひとつ。仮面を付けたデモ隊でごったがえす劇場に、すんなり忍び込むことに成功し、トイレでウェインと対面するシーン。「父親」への訴えは届かず、洗面台でうなだれるアーサーのその姿勢は、自室で同じポーズを取るアーサーの姿と重なる。ではこのシーンは現実なのか。母親の話が真実でないことに薄々気が付いていたアーサーの、「もしウェインに会ってもこうなるだろう」という妄想ではなかったのか。

 

 


映画の中で映画を見るシーンがあるとき、そこで描かれる観客の姿は時として、この映画を見ている観客(=我々)の姿を象徴する。モダンタイムスの労働者を見て無責任に笑う富裕層の観客達は、この映画「JOKER」を見る、アーサーを見て笑う我々観客の姿を映しているのか。いや笑えたものじゃないのだが。