打ち手の意思は誰のものだ

以下は片山まさゆきノーマーク爆牌党」単行本5巻からの引用。残り半荘1回を残しトータルトップと150ポイント以上の差をつけられた岩田プロとオニオンの会話。



岩田「…オニオンさん 公式戦でカヤの外に置かれた場合どう打ちますか?」
オニオン「優勝の可能性がなくなった場合か? 
 決まってるじゃないか 誰にも打たないし誰にも鳴かせない」
岩田「はたしてそれだけが正解でしょうか? 私は少なくとも3つの選択があると思う
 1、何もしない
 2、その半荘だけでもトップを取る
 3、ひとりの打ち手を独走させない
 オニオンさん あなたが常に1番を選んでるように 私は3番を選んでる それだけのことですよ」
オニオン「1番以外は勝手な打ち方だと思うがね」
岩田「私達はプロです その前には常に白熱した勝負を期待するファンがいる
 だったらそのような勝負を演出できるということもプロの条件だと思いますよ」
オニオン「演出? 余計なお世話じゃないのかな」


ネット麻雀「ロン2」でのトーナメント戦において、敗退が決定した状態でのリーチ後のツモ和了を放棄した一井プロに対し「アガりを拒否する行為は意図的な着順操作」とこれを認めずにツモ上がったものとして順位を決定する、という裁定が下ったそうだ。詳しくはこちらを→http://d.hatena.ne.jp/izumick/20041119#p1(情報元:id:izumick 麻雀業界日報)
izumick氏が挙げた疑問はどれもまったく正論であり、このような裁定をした以上主催である連盟はこれらの疑問に明確に回答する義務がある、と考える。
アガサン・アガラス論争でもそうなのだけど、こうした問題の根底にある原因としてまず麻雀のルールの特殊性がある。点数を競う競技のほとんどは自分の点数を獲得する行為をミクロな目的とし、競技終了時に相手より多くの点数を持つ事をマクロな目的としている。この「競技の終了」がなんであるかは「1、時間制限制(サッカーなど)」「2、規定点数先取制(バレーボールなど)」「3、規定回数制(野球など)」等の方式があるけれども、これらはどれも「自らの点数を得る行為により負けが決定する」ことはない。だからこそ「点数を得る行為」を何の躊躇もなく行えるわけだ。
しかし麻雀はそうではなく、「子の和了、または流局時親のノーテン」によってのみゲームが進行する。子にとってみれば「点数を得る行為」によってゲームを終了させ、結果自分の負けを決定することも起こり得る。ミクロな目的を達成しながらマクロな目的を放棄するのだ。ここに麻雀のゲームとしての矛盾が生じ、「オーラスで意味のない和了をするな」という論争になるわけだ*1
で、この矛盾を百も承知で麻雀というゲームをプレイしているプロという人種が存在しているのだけど、ではそのプロは果たして「プロ意識を持って打つ」責任があるのだろうか。
問題の局面では一井プロはまだ役満直撃をすれば勝ち上がりの目もあったという。ならばこれが役満直撃でも変わらない局面であったならまた話が違うのであろうか。リーチをかけたのにツモ和了を放棄した事が問題だと言うのならばダマ聴であったら認められるのか。いや、そもそも逆転の目がない(またはとても少ない)プレイヤーはどう打つべきなのだろうか。どう打つべきかを他者が決める権利があるのだろうか。あると言うのならばその者がどう打つべきかを明文化する義務はないのだろうか。
麻雀業界日報のコメント欄に
役満にしか意味の無い状況ならば、崩して役満を狙うべき。役満を作って直取りしても状況が変わらない時だけ、邪魔にならない様に誰にも振り込まない様に打つか、他の3人に、条件関係無くあがりに向かう事を断ってから局を始めるべき。」
との書き込みがあった。この意見もわかるのだが、では無理して役満を狙う事で他家に鳴かせる・上がらせる可能性が高くなることについては問題がないのか。またフリーでたまに見受けられる「どっからでも上がります」宣言をプロの対局でもするべきか。上がる事に意味のない局面で上がることで他家の順位を変えることに問題はないのか。等の問題も同時に生じると思うのだが。

*1:この問題を解決するべく、つまりミクロとマクロの目的を一致させるべく終了条件を改定して創作したのが千式麻雀なわけです(宣伝)