差別とは怠惰である

Jリーグが発足したのは僕が中学の時だった。
ほんの一握りの昔からのサッカーファンを除いて、多くの日本人がなんだかよくわからないままにプロによるサッカーの試合を見始めた。僕の周りでも世間のからそのまま受け継ぐ形でブームとなり、みな学校で昨日の試合の話で盛り上がるようになった。
「スポーツ観戦は贔屓のチームがないとつまらない」という事実は当時の中学生にもプロ野球のそれを経験していることで分かっていた。突然知ることになったJ1の10チームのうち、巨人ファンはそのままヴェルディを、判官びいきの者はアントラーズを応援するようになった。それ以外のチームのファンもいたことはいたが、周りと話が合わない事を悟るとすぐに前出の2チームのどちらかに鞍替えしていった。
私にはこの光景がとても不思議に感じられた。どうしてみんなすぐに特定のチームを好きになれるんだろうかと。
今になって思えば「楽しむために好きということにしておく」という、一種の自己催眠をかけていたのだろう。理由はないけど俺はこのチームが好きなんだと自分に言い聞かせ続けることでそのうちに本当に好きになるだろうと。
僕は今でもJリーグはおろか、プロ野球においても贔屓のチームを持たないままだ。知らない人を好きになったり嫌いになったりできないから。
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進学した高校は野球が強いところだった。テレビで地方予選の決勝を戦う姿を見ることもあったが、しかしどうしても特別自分の学校を応援する気にはなれなかった。愛校心が持てなかった。
今でも、例えば出身大学が駅伝に出ても特別勝って欲しいとも思えない。実際走っている選手は知らない人だ。
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ヤンキース松井秀樹は高校時代に甲子園の試合で相手チームから恐れられ、ある試合で4連続敬遠を受けたことがあった。この「事件」は当時話題となり、敬遠を指示した高知代表校の監督は全国から非難された。
僕が読んだ新聞の投書欄でこんなのがあった。
「見ていて腹が立った。これから一年間は高知出身の人間とは口を聞かないことにする。」
まったく意味が分からなかった。自分が不快に思ったプレーをした学校の所在地と同じ出身の人間なら無差別に話をしないというのだ。なぜか一年間という期限つきで。その後この当初の主と出会った高地出身の人は自分が無視される理由が理解できたのだろうか。敬遠をしたことも、敬遠を支持したことも、そもそも野球そのものをやったことがないかもしれないのに無視されるこの不条理を理解できただろうか。
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9月11日にニューヨークのビルに旅客機が突っ込んだ後、アメリカに住むアラブ系の民族は迫害を受けたという。
アラブ系であるだけのその人は、おそらくは旅客機をハイジャックはしていないし、その指示もしていないのに、だ。
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自分が憎むべき人物がいたとして、近くにその人物と何かしらの共通点を持つ別の人物がいたとき、人はなぜかその別人を憎むことができる。その共通点は思想であったり宗教であったり、「生まれたところや皮膚や目の色で」あったりする。
これを差別という。
本来自分が憎んでいる相手が遠くにいる場合、憎むべき相手に会うのが困難な場合、人は近くにいる「似た人」を代わりに憎む事で手を打つ。それでとりあえず気が済むのだから便利なことだ。
そう、「人をきちんと憎む*1」ことはとても困難で、手間がかかり、面倒くさいことなのだ。代わりに手軽に憎む対象を見つける方がずっとラクだ。
人は面倒くさいから別人でも憎む

*1:ここでは「正しく憎む」というより「その対象をずらさない」という意味で