「すべらない話」の不自然さ

いまから10年くらい前、誰か芸人がエピソード話を披露したあと、ダウンタウンの二人がよくそれを非難するニュアンスで「それネタやんか!」と言っていたのを誰か覚えていないだろうか。最近はちっとも言わなくなったが。
この場合の「ネタ」とは、その人が持つ、鉄板でウケることが分かっている、自信のある、そしておそらくは何度も披露したことのあるエピソード話という意味である。「持ちネタ」と言い換えてもいい。
当時この「ネタやんか!」の意味がまったくわからなかった。いや言葉の意味としてはわかるのだが、どうしてネタ話をすることが非難されるのか、その価値観がわからなかったのだ。

お笑い論によく出てくる言葉に「笑わせると笑われるは違う」というのがある。ちっとも賛成できないが、便宜上これを「笑う」「嗤う」と書き分けてみる。

その昔、お笑いの人は歌手や俳優よりも立場が低かった。その立場を逆転させたのは例の長者番付と「遺書」だったと思うのだけど、それはともかくどうして低かったのかと言えば、「人を笑わせたいがためにそこまでするか」と思う感情が人間に備わっているからだろう。道化師は人を笑わせるが、人は道化師という職業を嗤う。

つまり「ネタやんか!」もそういうことなんだろう。人は、人を笑わせるために「これを言えば爆笑間違いなし」なんてネタをいくつも仕込んでいる者を嗤うのだ。大木こだまの「さっき新幹線でエラい静かにしてる思たらそれ考えとったんかいなー腕上げたなー」なんてのもそうだ。反射的にその場で思いついた事で笑わせられる者がカッコよくて、持ちネタを用意してくるのはカッコ悪い。そういう価値観なんだろう。別に面白いんならどうでもいいと思うのだけど。



で、「すべらない話」だ。
なんの恥じらいもなくネタ話を披露する企画が今や人気番組である。カッコ悪いんじゃなかったのかと言いたくなるが、しかしかつてあった面倒くさいだけの価値観が変わったというなら歓迎したい。

ただやはり、その「ネタやんか!」という考えの名残はこの番組にもまだちらちらと見受けられる。出演者はみな一様に「緊張してます」「出たくなかった」などと口にし、話の披露はサイコロの出目によって決められる。みな「自分からすすんで話したいわけじゃない」というスタイルを保とうと必死なのだ。「すべらない話」というタイトルの番組に出演しておきながら、である。ここにとてつもない不自然さを感じるのは僕だけだろうか。