(ネタバレ注意!)シガテラ最終回を読んだ。

まず違う作品から。
藤子F不二雄の短編に「ある日・・・」というのがある。アマチュアで8ミリを回して自作映画を製作するサークルの発表会で「単なる日常スケッチの映像がしばらく続いた後で突然プツンと終わる映画」を流す青年が他の会員から批判を受けるのに対し「これは人類滅亡の瞬間を描いた社会的な作品だ。滅亡の日はある日突然やってくるものだ。なんの変哲もない日常の、その次の瞬間にこそ滅亡が訪れるんだ。」と主張するという話だ。
シガテラ最終回を読んでそれを思い出した。まるで連載中の作品のある地点でプツンと終わってしまったかのようなラスト。最終回は何も起こらない「日常」を描いていたのだった。
荻ボーは大人になった。
大人になるということは、つまり何も起こらない方を選び続け最後に残った道の先にあるものなのかもしれない。
古谷実の前作「ヒミズ」の主人公が辿り着ける事のなかった、「何もないけど、何も不幸せな事も起こらない日常」に荻ボーは辿り着いたのだった。それは彼にとって、若いころに選んだ「南雲さんと幸せになる」という望みとは半分ずれた、しかし決して不満ではない結末だった。
そして古谷実は「何も起こらない日常」をマンガで描く事を放棄した。
いや、「何も起こらない日常」を、ありのまま何も起こらないよう描いたのだった。
それこそが現実。それこそがリアルだ。と言われてる気がしてならない。
荻ボーにはもう不条理な不幸は訪れない。
荻ボーの日常は安定したものになった。
そう。荻ボーは幸せになったのだ。それでいいじゃないか。
南雲さんと結ばれなくたっていい。そこまで上手くいくのはリアルじゃないから。