何かを評論するということ

マンガの評論を1時間するだけの番組、「BSマンガ夜話」が大好きだ。かつては年4回のペースで放送されていたのだが、NHKの番組編成の改編によって存続が危ぶまれているらしい。是非とも何とか放送を再開して欲しいと願う。
さて、この番組のレギュラーであるいしかわじゅん氏は自他共に認める「日本一マンガを読む漫画家」である。自身の作品の人気はさておき、その読書量に裏づけされた歯に衣着せぬコメントはこの番組になくてはならないものとなっている。数少ない「マンガの評論」ができる人物である。
この「マンガ家でありながらマンガ評論家でもある」という位置を、同じくこの番組のレギュラーである作家の岡田斗司夫氏は自身の著書・サイト等で大きく評価している。しかしながら岡田氏がいしかわ氏を「マンガ評論家だ」と称するのをいしかわ氏自身は嫌がるのだ。「俺は評論家じゃない。マンガ家だ。」と。
これに対する岡田氏のテキストを読んだことがある。曰く「マンガ家の描いたマンガが作品だというなら、それを評論した評論文だって立派な作品だ。そこには上下の関係などない。映画監督が全ての映画評論家よりも偉いなんてことはない。」という意味の事を書いていたのだった。
「作品」の評論もまた「作品」である。
創作物を評論する事もまた創作行為である。

この考え方に当時の自分は深く感心させられたものだった。一つの作品に対し、それを誉めるにせよ貶すにせよ、読んで面白い評論文というものは確かに存在する。そしてそれが多くの人に読まれ、時には文章としてまとめて売られ、そしてまた誰かによって評価される。確かにこうなれば立派な作品だと、著作物だと言えるだろう。
一つの「作品」を鑑賞した後で、その作品が他ではどう評価されているのかが気になることがある。自分も映画や舞台を見た後はwebの中の評論文や感想を読み漁るのが習慣となっている。
ここで自分とは反対の評価をした文と出会ったとしたらどうだろう。無条件に腹を立てるだろうか。「それは違う。あなたの見方は間違っている」などと自分の意見を示すだろうか。あるいは自分が書いた評論文に対し反対する意見が寄せられたとしたらどうか。
結局「評論がまた評論される」事の繰り返しとなるわけだが、多くの「アマチュア評論家」達は岡田氏のような意思を持っていない。自分の書いた文章が面白いかどうかはさておき「この映画全然オモシロクねー!糞!」などと書いてみせる。逆に誉める場合でもただ「すっごい面白かったです!サイコー!」と書くだけの人もいるが、こちらはまだ罪がないだけいい。
作品の評論もまた作品である。この考えに出会ってからは他の評論文を読む姿勢が変わった。ただ自分と意見が合わないだけで腹を立たせることはなくなった。それが読み物として面白いのかどうかに興味が移っていった。どこかどう悪いかを分析できずにただ「この映画糞!」とだけ書かれた文章には苦笑するだけになった。
そういうわけで、何か作品を鑑賞した後には「それが読み物として価値があるか」を気にした上で感想を書くようになりました。絶賛も酷評も理由を付けた上で書くように。勘違いや無知による間違いも極力起こさないように努めて。
じゃないと恥ずかしいですから。