だからギャンブルマンガは難しい

賭博堕天録カイジ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

賭博堕天録カイジ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

連載時は3週載って1週休載のペースを守り、単行本を一部につき13巻ずつ発行した福本伸行の「カイジ」シリーズは、先日タイトルを「賭博堕天録カイジ 和也編」と改めて連載が再開された。
いまだ新しいギャンブルの種目すら明らかになっていない、相変わらずの福本ペースでの連載だが、これが興味深いのだ。
第三部で大金を手にしたカイジは、それを手にしたまま兵藤和也のそばに位置し、しかし和也の論を受け入れることもない。十分すぎる額の現金を持ったまま「今夜は勢いがある」「大勝ちした後にまだ勝負に乗る相手がいる」などと勝負続行の理由を読者に説明し、しかしその大事なお相手である和也を否定する。

ギャンブルマンガにおいて、作品内の熱量を上げる方法は主に二つある。レートを上げるか、自らの体を賭けるか、だ。
しかしこれはフィクションだから成立する話であって、実際にこんな「ヒリヒリする勝負」をするのは無理な話だ。カイジの言う通り大きな額を賭けて勝負してくれる相手が必要だし、こちらにもタネ銭が必要だ。あえて言うならそれにプラス、勝ったときの支払いの保証だって必要なはずだ。仮にこれらの条件を揃えることが出来る者がいたとしても、そいつはバカなギャンブルなんかやらないだろう。勝ち金を確実に回収できるほどの力は別の目的に使うべきだし、そもそも自ら破滅を望む人間は稀だろう。

カイジ」の兵藤親子や「アカギ」の鷲頭など、福本作品にはタネ銭がない若者相手の不釣り合いな勝負に乗ってくれる親切な資産家が登場する。彼らは勝ったところで何の収入も得られないのに負けたら大金をくれるという。人が死ぬところが見たい異常者だからという理由も一応あるが、それなら密室である勝負の場に連れ込んだ時点で殺せばいいだろう。いやいや負けたら死ぬという勝負で苦しむ姿とその後死ぬところが見たいのだという、偏った性癖を持っているんだということらしいのだが、では彼がその性癖だという保証はどこに。

そういうわけで、フィクションにおける「ヒリヒリする勝負」はただそれだけで現実味がなくなるという問題がある。いや、本来そんなことにまで気を使って読む必要はないのだけど、福本はその「ギャンブルの場を立てて、勝って、金を得て、無傷で帰ることの難しさ」をしっかりと描く*1。アカギでさえサイコロの目を当てたにも関わらず暴力で反故にされるのだ。
そしてこの「和也編」では、ギャンブルの場を立てることの難しさを描いた。ずいぶん正直な人だなあと思うのだけど、しかしもっと気になるのはカイジの心理描写だ。あれほどまでに軽蔑すべき対象として描かれた和也は、しかしカイジの大事なお客さんなのだ。食事の席も離したり
して、そんな態度でいいのかカイジ。気が変わって勝負を受けてくれなくなったら、いや受けてくれたとしても負けても払いたくないと言い出したらどうするつもりなんだカイジ。平気で人を殺す人間相手にどうして理屈やギャンブルのルールが通用すると思ってるんだカイジ。そこからはもう、ただ目の前の和也を信頼し続けることしかできないんじゃないのか。和也に嫌われないよう態度に気をつけることが何より「勝って、金を得て、無傷で帰る」ための道になるんじゃないのか。
それとも、これらの問題をすべて解決する新たな発明が福本の頭にあるんだろうか。あるとしたら、それはもうこれまで全てのギャンブルマンガが書けなかったことを書くことになるだろう。

*1:残念ながら、毎回完全に描いているとは言えない