藤子F漬けになる長い日々の始まり マンガの内容の濃度測定方法は
書店で。
- 作者: 藤子・F・不二雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2009/07/24
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まだ本棚のスペースの見通しが立っていないというのに、そして最終的に何期まで全部で何冊出るのかはっきりしていないというのに買っちゃったよとうとう。一期ごとに一年だから、最短の二期だとしても二年、最長だと四年の間毎月藤子F漬けになるってことだ。いやあどうしよう!(嬉しい悲鳴)
とりあえずパーマンだけ読みました。いやあいいなあこれ。本当にいい。何がいいってこの時代のマンガのリズムがいい。1ページ四段組み・1コマに2個の吹き出し・そして1話完結というこのテンポ。ちゃんと1話ごとに存在する起承転結。これがマンガというものだよなあ。
現代のように四段ブチ抜き・見開き・イメージシーン多用の作品も嫌いじゃないけども、しかし圧倒的にストーリーの濃度が違う。「マンガが映画に近づいた」と言えば聞こえはいいけど、しかしそれだけ1ページあたり・1コマあたりの濃度は薄くなったということだ。
上で「1コマに2個の吹き出し」と書いたのは、言い換えると藤子F作品が会話劇であるということだ。会話だからこそ台詞に対しその返事が、つまり2個の吹き出しがある。動きと台詞とがそれぞれ同じだけの速度で書かれるから読んでいてまったく止まることがない。スルっと飲み込めるというのは児童マンガにおいて大事なことだろう。
しかしこの「(マンガの)濃度」というものをなんとか定義できないものかしら。そしてその濃度を測定する方法とかできないかしら。「1ページあたりのコマ数をk、平均吹き出し数をf、登場人物の数をc、作品内の推定経過時間を1話あたりt分としたとき・・・」なんて計算式で求められたらいろんな作家別にグラフにしたりして楽しいのに。「ドラゴンボールは初期は高いものの連載が進むにつれて下降線を辿り、ベジータ登場で急降下・・・」なんて事実を折れ線グラフで表したい。