人が正しいとするもの 機械に正しいと認識させるもの


行ってきました。以下微ネタバレと考察と、バカバカしい思考実験。
自分の持つ「属性」とは何か。属性によって自分はどう認識されるのか。こうした問題に対する考察をいくつかの実験的な参加型展示で体験する「展」。それは「展」とは言う表現が合っているか疑問なほどに自らの参加が影響する展示だった。見る者によって見る物は変化する。
入場して最初にすることは自分の名前の入力と、身長体重の測定、眼球の登録(虹彩スキャン)だ。データベースに入れられた「属性」を再び呼び出すことで、自分が誰であるかを機械が判断してくれる。それは時として同じ身長同じ体重の別人と区別がつかないこともある。それこそが、その属性による認識の限界であるわけだ。
展示はどれも興味深いものであったけれど、それをみているうちに、これはつまり機械の「認識能力」の展示でもあることに気付く。展示コースの最後で読み取る個人の筆跡は、その文字が何であるか*1を書きながら判定している。人が書いた文字を、指紋や眼球によりその人が誰であるかを判断する。機械の認識能力が人間に近づいてきたということなのだけど、しかし果たして人間の側の認識能力は、そもそも機械に追いつかれるほど高いもの、正しいものであったのだろうか。そもそも認識能力が高いとは何のことなのだろう。指す時刻が異なる二つの時計があったとき、どちらが狂っているかを知るためには正しい時刻を知る必要がある。ではその正しい時刻はどこから知ればいいのか。正しいとされる第三の時計を基準にした場合、ではその第三の時計が正しいという根拠は。
つまりこれは「何を持って正しいとするか」「何を基準に同じとするか」という、定義の問題になる。

有名なだまし絵。このAとBが同じ色だと知って我々人間は驚くわけだが、じゃあなぜ違う色に見えるのか。なぜ違う色に見えるのにそれを「同じ色としなければならない」のか。
人間は色をその周囲との比較で認識するらしい云々という理屈はわかる。しかし、人間の脳内で処理されるときの色が別の色なのに、その「認識」がないがしろにされるというのはどうなんだ。この「認識」はどうしてくれるんだ。我々の誰もが違う色に見えるのならば、それはもう違う色だと「しても」いいじゃないか。
タラバガニは生物学上は蟹でなくヤドカリの仲間だと言う。そんな生物学の都合なんか知らない。あれを見て蟹だと思わない奴なんていないだろう。ならばもうあれは蟹でいいじゃないか。蟹と「して」いいじゃないか(この主張は既に通っている。実際いまでもあれをタラバ「ガニ」と呼んでいるのだから)。

ネット上で見かける「波打った文字」によるパス入力。人間の目には読み取れて、自動巡回ソフトには読み取れない形で文字を表示させ、それを読ませて入力させるこのシステムは人間と機械との認識能力の差を生かしたものだ。
じゃあなぜ我々はこの文字を読めるんだろう。いや、我々はこの波打った「p」をなぜ「p」と「している」んだろう。これは本当に「p」なのか、我々はどこまで形の崩れた「p」を「p」だとしているのか、それは「p」という文字の定義であり、「決め」の問題だ。こちらが勝手に決めた基準を正しいとして、それに近いものほど認識能力が高いとしているに過ぎない。ならば発想を逆転させて、人間が読める方の、人間が見える方の、人間が決めた方の基準を全て正しいとしたらどうなるか。上の絵のAとBは別の色と「して」いい。いくらデジタルデータとしての画像の彩度やらの数値が同じだとしても、それがどうした。人間様の目に見える、人間様の脳に処理される色こそがその色とするのだ。定義するのはこっちだ。

*1:ここではひらがな限定ではあったが