古畑任三郎FINAL視聴日記 第三夜「ラスト・ダンス」

殺人事件は被害者と加害者によって成り立つ。被害者は「不幸」なことに殺されてしまうわけであるが、刑事ドラマにおいては被害者だけでなく加害者もまた「不幸」になる。最後には逮捕されるからだ。
刑事ドラマの脚本家は、つまり一話につき登場人物を最低2人は不幸に追いやっている事になる。ドラマが長いシリーズになればその「不幸になった人々」は膨大となってしまう。脚本家とはなんと罪深き商売か。
12年の間殺人事件を書き続けてきた脚本家は、最終回くらいせめてもの罪滅ぼしとして自分自身を投影したキャラクターをその「不幸」な役回りに置いた。冒頭の劇中劇「ブルガリ三四郎」は言うまでもなくこのドラマ本編であるし、ならばその脚本家加賀美京子は三谷幸喜氏本人というということになる。そして彼女は双子であり、姉妹で被害者と加害者の両方の役を与えられた。自身で収束された「役」。
さてその最終回、古畑の推理はともかく視聴者への見せ方が間違っていたような気がするのだけど。殺人が起こる前に双子が入れ替わったことが台詞から明らかであるのだが、果たしてそれでよかったのか。視聴者にもそれが分からないまま最後に謎解き、という流れの方がなんぼかマシだったんじゃないだろうか。だって別人に成り代わって生きるなんてできるわけないじゃんか、というツッコミを終始頭から排除しながら見なければいけなかったわけだから。
「撃ち殺した後に本人の手に握らせて自殺に見せかける」というのは以前にもあったのだけど、そのときは確か握らせてからもう一発撃たせて手に硝煙をつけていた。そうしなければ鑑識が自殺でない事を見抜いてしまうからだ。
「どう見ても事故死の現場にすぐに殺人課の刑事が来るはずがない」とか「自白させた時点では逮捕状が降りていないはずだ」とか、テレビドラマにおける「見なかったことにする事」は確かに存在するのだけど、しかしその基準は作品毎に一定にしておくべきじゃないだろうか。