ツモ上がる麻雀マンガ 出上がりする麻雀マンガ

出来の悪い麻雀マンガを批判するとき、よく「上がりしか書いてないじゃんか」という表現を用いる。手を開いたときだけ書く麻雀マンガはつまらないというわけだ。
ところで「打姫オバカミーコ」は、どちらかというとテンパイまでを描いている麻雀マンガだ。どのテンパイを取ると正しいかの選択を主として描いていて、上がるシーンそのものは単なる結果としているように読める。

打姫オバカミーコ (1) (近代麻雀コミックス)

打姫オバカミーコ (1) (近代麻雀コミックス)

例えば同じ片山作品でも「ノーマーク爆牌党」や「クロカルクラブキル」はロン上がりした奴が偉いという世界である。特にリーチをかけていない相手からのロン上がり。つまり選べる捨て牌での、だ。よく考えれば、マンガとしてはその方が描きやすいのは当然である。意思のある捨て牌で討ち取ると勝ち負けの構図がはっきりするが、ツモ上がりではそうはいかない。山には意思がないので、ツモって勝ってもそれはたまたまじゃないかと思われてしまう恐れがあるからだ。*1選択を誤った者が負け、誤らせた者が勝ちであるとした方がドラマは描きやすい。
しかし麻雀の、特に現代の一発裏ドラアリルールでの麻雀のリアルを描こうとすると、どうしても「リーチしてツモった奴が偉い」という事実を書かざるを得ない。ツモれるかどうかを強さとして描くのは難しいので、そこで勝負は「いいテンパイが取れるか」にシフトするわけだ。だからこの作品の中でツモ上がれる理由は「上がれるテンパイを取ったから」である。もちろん実際には必ずしもそうではないのだけど、しかしツモ上がりに説得力を持たせることには成功していると言えるだろう。
そういうわけで、「オバカミーコ」の作品の質は認めながらも、しかし僕はやっぱり嘘でもいいから奇手で相手から討ち取るタイプの麻雀マンガが読みたいのだ。なぜならそこには勝者と敗者の間に意思があるから。駆け引きがあるからだ。そう、僕は「クロカルクラブキル」が大好きだったんだ。

*1:たとえば「天」の二人麻雀でも、ルール上ツモ上がりしか存在しないはずなのに、最終局では待ちを何度も外してからのツモ上がるという流れであった。あれがテンパイ宣言してすぐにツモ上がりであっては盛り上がりに欠けただろう。