東京ポッド許可局、ラリー遠田にパクられたと主張している一連の揉め事について

http://owa-writer.com/

  • 東京ポッド許可局

http://www.voiceblog.jp/tokyo-pod/

何度聞いても、やはり「手数によって漫才を評論するという手法(のパッケージ)」を自分のオリジナルだとする東京ポッド許可局側の主張には無理があるとしか思えない。漫才のボケの数を数えた人なんてこれまでいくらでもいただろうし。
実際、34歳の僕が小学校の頃に見ていた「お笑いスター誕生」でも、その回に出演していたコンビのそれぞれのネタ中にあったボケの数を審査コメントの最初に発表していた審査員がいたことを記憶している*1
ラリー氏が実際に盗用をしたのか、それはもう本人にしかわからない。東京ポッド許可局で論じられていなかったとしてもあの文章をラリー氏が書けたか?書けたとしても同じ内容のものになったか?という問題については、疑わしくはあるが、わからないとしか言えない。
どこからどこまでが盗用になるのか。盗用元とされるものを読んでいたことを証明できたらどうか、できなかったら、というのはそれこそ法律が出てくる問題になるのだろうけど、しかし少なくとも、オリジナルを主張するならせめて「俺にしか書けない文章」である必要があるんじゃないか。
(11/10追記:ラリー遠田氏にまったく非がないとは思っていません。ほぼ同じ内容の文章を、それが同じ内容であることを知りながら別の場所に書くことが問題がないとは思えません。上の文章はあくまで、許可局側のオリジナリティの主張が的外れである、という内容です。)

*1:さすがに名前は覚えていませんが。あとボケの数ではなく客が笑った回数だったかもしれません。

じゃあ中学の時も今もイケてない人はどうしたらいいのか

めちゃイケ』に限らず、ある世代のお笑い芸人は「権威を傘にしたいじめ」を肯定している
http://d.hatena.ne.jp/toronei/20091017/M

一年も前の記事へのリンクですが。
めちゃイケの出演者同士のイジり方が不自然なのは、つまりもう何もイジることがないのに無理やり最近変な趣味を始めたとかなんだとかという意味のわからない言いがかりを理由にしてるところなんですよね。ほんのちょっとでも人に笑われるようなことをした奴はいくらでもバカにしていい、というような。
それを笑えたり、笑えなくても「お笑いの世界ってのはそういうもんだから」と許容できてしまうというのは、つまりお笑いの世界の常識が我々の常識と違っているということを認識しながら、ならば我々の方から近付いて行こうとしているということですよね。本来芸人用語であったはずの「寒い」とか「(客が)引く」とかを普通に知るようになり、誰が先輩で誰が後輩か、誰と誰が同じ事務所かということを知ってて当たり前になるというのは、ずいぶんと演者にとっていい客だなあと思うわけです。自分も含めてですが。
バラエティがイジメショーになっているのは今に始まった話じゃないんですが、なぜか今はその上に「それも笑いに換えられるんだからいいんだ」という論理が主張されているように思えます。アメトークの「中学のときイケてなかった芸人」の回はまんまそれで、「でも今ではこうして笑いにできましたよ」という成功者の視点から語られているだけだよなあと。
不幸を語れば語るほど得する仕事ってのはお笑いだけであって、それ以外の仕事に就いた人達は、そもそも笑いに換える技術を持たない人達はじゃあどうするべきなのか。これまではまだ我慢するだけで良かったものを、今ではその技術を持たない自分が悪いんだということになっているとしたら。

一応長年ラジオも毎週聞いてたほどには雨上がり決死隊のファンではあるんですが、宮迫さんがたまに「いまあそこで○○って言うといたら受けたのになんで言わんかったん?」って後輩にするあの説教、あれなんなんでしょうね。いつどこでどうボケるかを決める自由なんてないってことなんですかね。

それだけです。

めちゃイケSP見た

見てるあいだずっと唸ってた。これでいいんだろうかと。

要するに「覚悟」の問題なんだろう。出場者は人生を変える覚悟があるのか。番組は人の人生を変えてしまう覚悟があるのか。通常の、番組がタレントを起用するという形なら見ていられるのは、そうした覚悟に関する問題が片付いていると安心していられるからなんだなあと。

新レギュラーが入った図が見えてこない、何をするのかわからないとは言うけど、そんなの毎回企画が変わるような番組なんだから当然だろう。新メンバーの有無に関わらず2ヵ月後何やってるか見えてこないよ。それなのにさらに新しい風って言われてもなあ。

新しい仲間とこれからずっと一緒に「やっていく」、とは、具体的に何をやっていくのか。それが見えない。

面白いのか、面白くないのかを決められる人

IPPONグランプリ見た。

あの番組の、というかひとつの大喜利コンテストとしてのいいところは、5人で一度にひとつのお題に答えていくところ。逆に悪いところは芸人が審査するから「0点の方が面白いだろう」という、スベリキャラを生み出してしまうところ。今回の日村さんのように。
じゃあダイナマイト関西はというとこちらとまったく逆で、審査方法はまだいいとして常に1対1のトーナメントだからテンポが悪いのが残念だ。
歴史のあるダイナマイト関西は、あっという間にメジャーな大喜利大会になってしまったIPPONグランプリをどう思っているんだろう。あれほどオープンで誰でも参加できる大会がメジャーになれない理由がテンポの悪さにあるのだとしたら、じゃあ双方のいいとこ取りをしてはもらえないだろうか。具体的には、ダイナマイト関西を1対1から5人戦に変えてもらえるだけでいい。

笑いを評価するためには、何を面白いとするのか、何によって、誰によって決めるのかという基準が必要になってくる。これには絶対神を置くのか、あるいは大衆に任せるのかの二種類があるわけだけど、IPPONグランプリではその審査を別ブロックの芸人に任せながら、視聴者からの投稿の判定基準を松本人志一人に置くという変則的方法を用いている。このとき大衆は神の裁きに逆らえない。

かつて「お笑い共通一次」で視聴者の回答に点数をつけていた松本だが、そのときも、そして今も同じく必ず「悪い回答例」を出す。宗教に戒めはつきものである。

ほんの少しの牌効率

忘れないように自分用メモ。

完全イーシャンテンとカンリャンメン、どちらがいいのかよく迷う。

一萬三萬四萬五萬五萬六萬三索三索六索七索 ポン中中横中 ツモ七索

ツモ切りか、打1mか。
二つのポン材が鳴けそうところなら完全イーシャンテンがいいだろうし、カンリャンメンの「カン(チャン)」の部分がいいならそっちだろう。
平和をつけたいかどうか、テンパイから引っかけリーチを打ちたいかどうかなどでそれぞれ判断は変わってくるだろう。上のように食い仕掛けしているときならやや完全イーシャンテンが有利かとも思うが、それでもポンができそうかによるところが大きい。
ただ一つだけ、必ず完全イーシャンテンを選ぶべきツモがある。カンリャンメンの山の部分、上の例で言う5mである。

一萬三萬四萬五萬五萬六萬三索三索六索七索 ポン中中横中 ツモ五萬

1mを切っても裏目がない。58sを先に引いたら47mと25m3sの選択も出来る。カンリャンメンの上位互換だ。